いまの若い世代のガキどもには到底わからないだろうが、日本の音楽史において「BOØWY」というバンドがもたらした衝撃は、まさに地殻変動そのものだった。それまでアンダーグラウンドの泥臭いサブカルチャーでしかなかった「ロック」というジャンルを、鮮やかに日本の大衆文化へと叩き込んだ彼らの足跡は、以降のジャパニーズロックの風景を完全に塗り替えた。今回は、この伝説のバンドが日本の音楽界に残した途方もない功績の数々を、影の立役者であるプロデューサー・佐久間正英の存在や、ボーカルである氷室京介の壮絶なルーツも含めて、俺様が余すところなく紐解いてやる。
氷室京介の圧倒的なダンディーさと、音楽に救われた壮絶な不良のルーツ、そして日比谷野音での誓い
バンドのフロントマンである氷室京介(本名:寺西修)が放っていた圧倒的な色気とダンディーさは、当時の音楽シーンにおいて異次元の輝きを放っていた。世間の凡百のボーカリストたちがただシャウトしているだけの時代に、彼の歌声には研ぎ澄まされた美学と危険な香りが同居していた。
そもそも彼のルーツを語る上で避けて通れないのが、地元・群馬時代における凄まじいヤンチャぶりである。若い頃の氷室は地元でも鳴らすかなりの「悪」であり、当時の周囲の人間が「もし彼が音楽と出会っていなければ、間違いなく本物のヤクザになっていただろう」と口を揃えて証言するほどのすさまじい狂気と反骨心を孕んでいた。一歩間違えば闇社会の住人になっていたかもしれないその危険なエネルギーが、のちにすべて音楽へと昇華されたからこそ、彼の表現するロックには本物のリアリティと圧倒的な色気が宿ったのだ。
ちなみに、のちに日本を代表するロックバンド「BUCK-TICK」のフロントマンとして君臨することになる櫻井敦司とは、同じ高校(群馬県立藤岡高等学校)の先輩・後輩にあたる。そのBUCK-TICKで過激なギターを掻き鳴らす今井寿もまた、群馬の血脈が生んだ生粋のロック少年であった。
さらに、彼の音楽人生を決定づけた強烈な原点として、上京後に当時の彼女に捨てられ、失意のどん底に突き落としたエピソードがある。身も心もボロボロになりながら足を運んだ日比谷野外音楽堂でRCサクセションのライブを観覧し、名曲「スローバラード」を生で聴いたとき、氷室は心の底から激しい悔しさと衝動に駆られた。「こんなところで終わらねぇぜ」と、そのステージの光景を目の当たりにしながら己を奮い立たせ、這い上がることを誓ったという。その剥き出しのハングリー精神こそが、のちに彼を頂点へと押し上げる最大の原動力となったのだ。
その片鱗は、高校生時代に組んでいたバンド「デスペナルティー」のデモ音源を聴けば一目瞭然である。若かりし頃からすでに完成されていたあの独特の歌回しと表現力こそが、のちに日本のロックボーカリストの基準を底上げした原点なのだ。ステージの上で一切の妥協を許さず、全身で狂気と色気を表現するその姿に、日本中の若者たちが魂を奪われた。
伝説の始まり:六本木アマンドでの出会いと、ひねくれ者・布袋寅泰の革命
群馬を飛び出し、伝説のバンドを形作る上で絶対に外せないのが、氷室京介が布袋寅泰を呼び出して待ち合わせた伝説のワンシーンだ。まだ新たなバンドの構想を練っていた氷室が、当時から圧倒的なギターの才能で異彩を放っていた布袋を呼び出した場所こそ、あの「六本木アマンド」であった。この甘い空気が漂うトレンディな街の喫茶店で、不良上がりのボーカリストと一癖も二癖もある天才ギタリストが邂逅した瞬間から、ジャパニーズロックの歴史の歯車が激しく動き始めたのだ。
ギターを担当する布袋寅泰という男は、音楽的に見れば筋金入りの「ひねくれ者」であった。王道とされるフェンダーのストラトキャスターやギブソンのレスポールに安易にすがることなく、自身のスタイルを貫いたその姿勢には強烈な反骨精神が宿っていた。彼はキリスト教系の私立高校である新島学園に通っていたが、校則で長髪を厳しく咎められた際、「イエス・キリスト様だって長髪だろ、なんで長髪だめなの?」と先生に真正面から喧嘩を売り、高校3年のときにその反骨精神のまま学校側と対立して退学処分となった。そして退学したその足で自ら髪を切ったという筋金入りの逸話を持っている。もっとも、その伝説的な反骨精神と圧倒的な音楽的功績が認められ、のちに母校である新島学園から名誉卒業生の称号を贈られるという最高のオチまでついているのだから痛快だ。そのブレない反骨精神のまま彼はテレキャスターを愛用し、独自のプレイスタイルを築き上げていった。
特に象徴的なのが、彼のアイデンティティともなるギターのペイントにまつわる逸話である。ライブのたびにギターを何本も持っているかのように錯覚させるため、自らギターに幾何学模様のペイントを施した。さらに、彼らの伝説的なラスト・アルバム『PSYCHOPASS』に収められ、今なお絶大な支持を集める名曲「MARIONETTE」のPV制作を手掛けたのが、当時から尖った才能を発揮していたあの「ガイナックス」であったことも、映像面における革新的な伝説として語り草となっている。この独自のビジュアルと映像演出の融合が、バンドの強烈なアイコンを形作ったのだ。
さらに、彼の抱いていた「ギター・ソロなんて無意味だ」というアティテュードは、当時のギタリスト界隈において痛烈なパンチとなった。単なるテクニックのひけらかしとしての速弾きを嫌い、楽曲全体をドラマチックに彩るためのリフとフレーズで勝負した。さらに、メンバーが途中で6人から4人へと減ったという逆境こそが、布袋を「エフェクターの鬼」へと変貌させた最大のきっかけである。機材とアイデアの限りを尽くして音の厚みを補い、唯一無二のギターサウンドを作り上げた彼の執念が、BOØWYの音楽性を決定づけた。
伝説のサウンドを裏から創り上げた佐久間正英という存在
そして、彼らが叩き出す研ぎ澄まされたロックサウンドの骨格を、スタジオワークの面から完全に構築し支え続けたのが、伝説的音楽プロデューサー・佐久間正英である。
初期のBOØWYにおける楽曲の構造を客観的に見つめ直し、アレンジを劇的に洗練させ、レコーディングの質を極限まで引き上げた手腕は、まさに「神の手」であった。布袋寅泰をはじめとするメンバーたちも、佐久間のことを音楽的師匠として深くリスペクトしており、彼らの圧倒的な音の説得力は、佐久間正英という卓越したプロデューサーの指導やディレクションなしには絶対に成し得なかったものである。
鉄壁のリズム隊:幼馴染・松井常松と、異色のメンバー変遷
バンドの土台を支えたリズム隊の顔ぶれも、語るべき伝説に満ちている。
特にベースの松井常松は、氷室京介とは地元・群馬からの古い幼馴染であり、学生時代から苦楽を共にしてきた最も古くからの音楽パートナーである。彼は高校時代から氷室と共にバンド(デスペナルティー)を組み、のちにBOØWYのベースとして加入した。無駄な動きを一切排除し、ただひたすら無機質かつ重いダウンピッキングで刻み続けるそのスタイルは「ダウンピッキングの鬼」として知られ、バンドのサウンドに冷徹なまでのクールさをもたらした。感情を表に出さないステージ上の佇まいも含めて、彼のベースはBOØWYの骨格そのものだった。
そしてドラムの髙橋まことの存在も外せない。初期BOØWYを支えたドラマーが裏方に回ったあとに加入した、いわば「ちょっと遅れてやってきたおっさん」的ポジションでありながら、彼の叩き出す強靭でストレートなビートがバンドの疾走感を完璧にコントロールしていた。個性派揃いの猛獣たちを後ろからガッチリと支える屋台骨がなければ、あの絶妙なグルーヴは生まれなかった。
群馬・高崎を日本のリバプールに変えた奇跡と「群馬3B」の系譜
地方都市にすぎなかった群馬県高崎市から、これほどのモンスターバンドが生まれたという事実も歴史的特筆事項である。BOØWYの登場によって、高崎は一躍「日本のリバプール」とも呼べき音楽の聖地へと変貌を遂げた。
まだ何者でもなかった若き日のBUCK-TICKのギタリスト・今井寿が、のちに櫻井敦司と共に日本を揺るがすそのバンドを結成する以前から、高崎で行われていた彼らのミニライブに客として足を運び、その圧倒的な衝撃を目の当たりにしていたというエピソードも非常に味わい深い。彼らの背中を追いかけるように、伝説の「群馬3Bバンド」の系譜としてBUCK-TICKや世代を超えたバンドたちが群馬の土壌から次々と羽ばたいていくことになった。「地方の不良少年たちが音楽で世界を変えられる」という道筋を最初に示したのは、まぎれもなく高崎の地から這い上がった彼ら自身なのだ。
氷室と布袋の確執、そして「墓場まで持っていく」解散の真実
バンドの歴史を語る上で避けて通れないのが、絶頂期におけるメンバー間の確執と解散の真相である。フロントマンとギタリスト、強烈な個性を持つ天才2人が衝突するのはある意味で必然であり、当時の関係性は決して穏やかなばかりではなかった。
なぜ彼らが絶頂期に散らなければならなかったのか。その本当の解散理由について、布袋寅泰はのちに自身の自伝の中で「墓場まで持っていく」と綴っており、当事者たちにしか分からない凄まじいドラマや確執があったことを匂わせている。すべてを語らぬ美学こそが、彼らの神格化にさらに拍車をかけた。
また、それに付随して、氷室と布袋の間に確執の噂はあったものの、アーティストとしてのリスペクトは本物であった。象徴的なエピソードとして、当時布袋の妻であった山下久美子のバックバンドのメンバー全員が「全員BOØWYのメンバーだった」という異常事態があげられる。音楽的な信頼関係においてはお互いの才能を誰よりも認め合っていたからこそ、あの奇跡のようなアンサンブルが成立していたのだ。
ロックの大衆化と、同窓会的なラストライブ「LAST GIGS」の狂気
それまでの日本において、ロックはどこか不良のもの、あるいは一部のマニアックなサブカルチャーとして扱われていた。しかし、佐久間正英の手厚いプロデュースも背景に持ちながら、BOØWYはその高いポップセンスと洗練されたビジュアルで、ロックというジャンルを一気に日本中の大衆へと浸透させた。彼らは「カッコいい音楽でチャートを制覇できる」ことを証明した最初のバンドである。
そして何より語り草となっているのが、1988年に行われた解散ライブ「LAST GIGS」だ。どこか一種の“同窓会”のような空気感を纏いながらも、日本中のバンドキッズやファンを狂乱の渦に巻き込んだあのステージは、日本の音楽史における最大の伝説となった。当時、大学1年生だった俺様は、まさにそのライブ当日の東京ドームの周囲が放っていた異様な熱気と、街全体が異常な興奮に包まれていたあの光景を生々しく覚えている。足を踏み入れた瞬間に肌で感じたあのドーム前の異様な空気感こそが、彼らが時代の寵児を超えて“神”になった瞬間だった。
解散後も、氷室京介や布袋寅泰をはじめとするメンバー個々人がそれぞれのフィールドで第一線に立ち続け、ソロアーティストとして圧倒的な足跡を残し続けていることこそが、当時の彼らが本物の才能の塊であった何よりの証拠である。
結びに代えて
BOØWYが日本の音楽シーンに残した功績は、単なるヒット曲の数々にとどまらない。「ジャパニーズ・ロック」という概念そのものを再定義し、佐久間正英という最強のプロデューサーと共にサウンドの骨格を磨き上げ、その後のミュージシャンたちに「こういう生き様でステージに立て」という道標を遺したことこそが最大の偉業である。六本木アマンドでの運命的な出会いから始まり、女性にフラれた失意の中で日比谷野音のRCサクセションのライブに触れ、「こんなところで終わらねぇぜ」と奮起した一人の男のハングリー精神が、幼馴染である松井常松のベースに支えられ、ラストアルバム『PSYCHOPASS』を彩りガイナックスが手掛けた鮮烈なPVや、キリスト教の学校で「キリストだって長髪だろ」と暴れて退学になりながらものちに名誉卒業生となったひねくれ者・布袋の反骨精神と重なり合い、櫻井敦司とバンドを組むことになる若き日の今井寿をも観客席から熱狂させたその圧倒的なエネルギーを巻き込みながら日本中を駆け抜けた。そして、群馬3Bの系譜の原点として、大学1年の俺様がドーム前で目撃したあの異常な熱狂の果てに、理由は「墓場まで持っていく」と闇に葬られ、伝説のまま散っていった——。
世間では未だに復活を望む声があるが、本当のファンはそんなものを求めてはいない。あの時代の、あの刹那的な疾走感こそがBOØWYというバンドを極限まで昇華させたのであり、のちの数々のアーティストたちがこぞって真似した伝説の言葉——「ライブハウス武道館へようこそ!」に象徴されるように、彼らが放った圧倒的な閃光の輝きは、この先も絶対に色褪せることはないのだ。

