京急空港線に乗り、蒲田から羽田空港方面へとガタゴトと揺られていくと、車窓の風景は次第に異様なコントラストを帯び始める。糀谷、大鳥居、穴守稲荷、そして多摩川の河口近くに広がる羽田旭町。
見上げれば、ビルの屋根や住宅の屋根瓦を掠めるかのような低空飛行で、ボーイングやエアバスの巨体が腹部を剥き出しにして轟音と共に着陸態勢に入っていく。その巨大な影の下には、油の匂いを立ち上らせるトタン屋根の町工場と、人ひとりが通るのがやっとの細い路地、そして密集した昭和の木造住宅がどこまでも続いている。
旅行者やビジネスパーソンにとって、羽田とはピカピカに磨き上げられたターミナルビルと免税店が並ぶ「空の玄関口」に過ぎないだろう。だが、多摩川の堤防沿いにひっそりと佇む大正時代の「赤レンガ堤防」の遺構に足を運べば、この街が巨大メガインフラの拡張、度重なる治水の闘い、そして日本の精密製造業の屋台骨を支え続けてきた濃厚で泥臭い都市の記憶が浮かび上がってくる。
街の概要:前海苔の漁師町から世界最高峰の「削り屋」の街へ
この界隈の歴史を紐解けば、もともとは多摩川河口の豊かな干潟を利用した純粋な漁師町だった。江戸時代から続く「前海苔(まえのり)」の養殖や、アサリやシジミの潮干狩りで賑わい、かつて要所に鎮座していた穴守稲荷神社の門前町として、料亭や芸者置屋が軒を連ねる東京有数の歓楽街・観光地でもあったのだ。
その街の運命を根底から覆したのが、昭和初期の羽田飛行場(のちの羽田空港)の開設、そして終戦直後の1945年9月に断行された連合国軍(GHQ)による「48時間強制立ち退き命令」だ。現在の空港島部分に暮らしていた3,000人近くの住民は、わずか2日という非情な猶予で住み慣れた家を叩き出され、対岸の糀谷や羽田旭町周辺への移転を余儀なくされた。
海という生活基盤を理不尽に剥ぎ取られた住民たちや、戦前・戦後の復興期に全国から流れ込んできた技術者たちは、やがて金属加工や旋盤、金型製作といった精密機械加工の道へと活路を見出す。大田区臨海工業地帯の広大なサプライチェーンを支えるため、細い路地の奥深くに小さな町工場が雨後の筍のように密集していった。これが、現在まで続く「大田区の町工場ネットワーク」の原型である。
空港建設がもたらした巨大な光と影(メリットとデメリット)
羽田空港の拡張は、この地域に凄まじい恩恵と、それと同等以上の過酷な犠牲を同時に強いることとなった。
メリットは言うまでもなく、交通インフラの劇的な発展と経済的な求心力だ。かつては単線でローカル線に過ぎなかった京急空港線が地下化され、都心や成田空港と直結する一大幹線へと変貌した。首都高速道路の整備、物流倉庫の集積、そして24時間稼働する国際ハブ空港に隣接しているという圧倒的な立地条件は、地域の産業に巨大な利便性をもたらした。
しかし、その代償として地域住民と町工場が引き受けたデメリットは極めて重い。昼夜を分かたず頭上から叩きつけられるジェットエンジンの轟音と低周波振動。高度成長期からバブル期にかけて繰り返された滑走路沖合展開事業に伴う騒音訴訟と立ち退きの歴史。そして何よりも、「もし頭上の鉄の塊が落ちてきたら」という破滅的なリスクを、日常風景の一部として呑み込まされ続けてきた点だ。
香港と比べたらマシだが:逆噴射事故がもし街に突っ込んでいたら
かつて世界一危険な着陸と言われ、密集する高層ビルの間を洗濯物をかすめるように旋回していた旧香港・啓徳(カイタック)空港の狂気の着陸風景と比べれば、東京湾に面した羽田のアプローチはまだマシと言えるかもしれない。
しかし、それでも糀谷や羽田旭町の住民にとって、頭上を巨大な旅客機が通過する光景が薄氷を踏む思いであることに変わりはない。その恐怖が現実の悪夢として紙一重のところまで迫ったのが、1982年(昭和57年)2月9日に起きた「日本航空350便墜落事故(いわゆる羽田沖逆噴射事故)」だ。
着陸態勢に入っていたDC-8型機の機長が、突如として精神錯乱状態に陥り操縦桿を押し込み、あろうことかエンジンを逆噴射させた。機体は滑走路手前の浅瀬に墜落し、死者24名を出す大惨事となった。
この事故を都市防災の観点から振り返った時、背筋が凍るような「if」が浮かび上がる。もし、機長が逆噴射の狂気に走ったタイミングがほんの1〜2分早く、進入ルートがわずかに内陸側へズレていたらどうなっていただろうか。
海ではなく、糀谷や羽田の密集した町工場や木造住宅街のド真ん中に、数百トンの機体が可燃性の航空燃料を満載した状態で音を立てて突っ込んでいたことになる。
切削油やシンナー、高圧ガスボンベが並ぶ町工場街に旅客機が激突すれば、二次爆発と大規模延焼の連鎖は避けられず、地上の死傷者は数百人から数千人規模に跳ね上がっていたはずだ。大田区の町工場街は、そうしたカタストロフの一歩手前の安全マージンを差し出しながら、都市の発展を背負い続けてきたのだ。
赤レンガ堤防が語る水害の歴史、そして息づく「下町ロケット」の魂
羽田旭町の多摩川河口沿いを歩くと、現代の巨大なコンクリート製カミソリ堤防のすぐ脇に、苔むした大正時代の「赤レンガ堤防」が今なお姿を留めているのを目にすることができる。
大正時代の大洪水を経て、暴れ川であった多摩川の氾濫と東京湾の高潮から民家と工場を守るため、当時の職人たちがひとつひとつ手作業で積み上げた堅牢なレンガ壁。天災の猛威に怯えながらも、知恵と技術で土地を死守してきた先人たちの執念のモニュメントだ。
そして現在、この赤レンガの記憶を抱く路地裏には、まさに池井戸潤の小説『下町ロケット』に描かれたような超絶技巧が、誰に誇ることもなく日常の風景として息づいている。
外見はペンキの剥げ落ちた築数十年の木造長屋や、プレハブ小屋にしか見えない作業場。だが、油にまみれた作業着を着た白髪の職人が旋盤に向かい、叩き出している寸法公差は1000分の1ミリ(ミクロン単位)の世界だ。
ここで削り出されている部品の行き先を聞けば驚嘆する。最先端の人工衛星に搭載されるバルブ、深海探査艇の耐圧センサー、F1レーシングカーのエンジン部品、そして世界中の外科医が使用する微小手術用医療ロボットのアーム部分。大手重工業メーカーの最新鋭の工作機械をもってしても加工できず、「大田区のあの爺さんのところへ図面を持っていけ」と泣きつかれて完成させた逸話は、この街では決して珍しい昔話ではない。
頭上を飛んでいく最新鋭の旅客機のエンジンの中にも、もしかするとこの足元にある小さな町工場が削り出した極小の特殊ボルトが組み込まれているかもしれない。
結論:巨大インフラの影に息づくエンジニアリングの聖域
治水と空のメガインフラの狭間に押し込められ、時代の激流に揉まれながらも、冷徹なまでの精度で世界を支え続ける職人たち。
糀谷から羽田旭町へと続く散歩道は、大東京の華やかな表層の裏側に潜む、エンジニアリングの真髄と人間の泥臭い生命力が息づく聖域なのだ。

