東京スカイツリーの展望台に登り、ガラス越しに広がる360度の大パノラマを眺めては「東京は未来都市だ」などと無邪気にはしゃいでいるおめでたい観光客どもを見ていると、俺様はいつも冷笑を漏らしてしまう。巨大な電波塔が放つサイバーなLEDの光と、足元の商業施設に並ぶ整然としたテナント。そんな表層のハイテクなハリボテのすぐ隣に、昭和の生々しい情念と肉体の記憶がそのまま凍りついた迷宮が口を開けていることも知らずにな。
墨田区東向島。かつて「鳩の街」と呼ばれた一角だ。
東武伊勢崎線の東向島駅や曳舟駅から少し歩き、狭い路地へと足を踏み入れた瞬間、空気が一変する。車がすれ違うことすらできない細い道が蜘蛛の巣のように入り組み、角を曲がるたびに現れるモザイクタイルの円柱、アールを描いた怪しげな玄関ポーチ、そして磨りガラスの引き戸。昭和の「赤線地帯」として男と女の欲望を飲み込み続けたこの特飲街の遺構は、半世紀以上の時を経た今なお、都市の皮膚の下で妖しく息づいている。
なぜこの街は、巨大な現代の電波塔の真下で消えることなく残り続けているのか。文豪が溺れた歴史と、路地に沈殿する夜の魔力を、俺様が余すところなく解剖してやる。
業火に焼かれた「玉の井」の移転先――鳩の街の数奇な生い立ち
鳩の街の歴史を紐解くには、まず1945年の東京大空襲に目を向けなければならない。
当時、現在の東向島周辺には、私娼街として全国にその名を轟かせていた伝説の迷宮「玉の井(たまのい)」が存在していた。迷路のように入り組んだ路地に数百軒の銘酒屋が軒を連ねていたが、下町を焼き尽くした米軍の焼夷弾によって、玉の井の街並みは一晩にして灰燼に帰してしまう。
焼け出された業者や娼婦たちが、わずかに戦火を免れた寺島町一帯――現在の向島五丁目から東向島一丁目付近の長屋街へと雪崩れ込み、急ごしらえで営業を再開したのが「鳩の街」の始まりだ。戦後の混乱期、米軍の進駐とともに特殊飲食店街、すなわち「赤線」として指定され、迷路のような細道に百数十軒ものカフェー調の店がひしめき合った。
なぜ「鳩」なのか。一説には平和の象徴である鳩にあやかったとも、あるいは男を誘い込む女たちの姿を隠語で呼んだとも言われているが、いずれにせよ、戦後の焼け野原から立ち上がった男たちの飢えと、生き延びるために身体を張った女たちの執念が、この狭小な土地に濃密な夜の共和国を作り上げたのだ。
永井荷風が杖を突き、老いた足を向け続けた迷宮
この街を語る上で、稀代の文豪・永井荷風の存在を外すことは絶対に許されない。
荷風は戦前、玉の井のドブ板を踏み荒らしながら名作『墨東綺譚』を書き上げたことで知られるが、彼の娼婦たちに対する異様な執着は、戦後に玉の井が焼け落ち、鳩の街へと拠点が移ってからも一切衰えることはなかった。
黒い蝙蝠傘を杖代わりに突いて下駄を鳴らし、浅草から東武線に乗ってはこの鳩の街の迷路を徘徊する。荷風の日記『断腸亭日乗』には、老境に達した文豪が鳩の街のカフェーへ足繁く通い、うらぶれた女たちの部屋に上がり込んでは世間話を交わし、小銭を握らせていた生々しい記録が幾度となく登場する。
荷風が求めていたのは、上流階級の気取ったサロンなどではない。社会の底辺で泥水をすすりながらも、本能のままに逞しく生きる人間たちの体温であり、迷路のような路地に漂う頽廃の匂いだったのだ。彼が愛した路地の湿り気は、売春防止法によって赤線が幕を閉じた今なお、鳩の街のアスファルトの隙間から確かに立ち昇っている。
下町の魂を守るランドマーク――THE ALFEE坂崎の実家
そして、鳩の街通り商店街を歩いていると、もうひとつの重要な歴史の結節点に出くわすことになる。
日本を代表するロックバンド、THE ALFEEの坂崎幸之助の実家である老舗酒店「武蔵屋坂崎商店」だ。
古くからこの地で商売を営み、酒を求める地元住民や労働者たちの喉を潤してきたこの酒屋は、赤線の時代も、その後の商店街の栄枯盛衰も、すべてをその店先から見つめ続けてきた生き証人である。坂崎自身がカメラや骨董を愛し、古きよき下町の情緒をこよなく大切にしているそのルーツは、まさにこの鳩の街の路地裏で培われたものだ。
外から見れば単なる「観光のネタ」に見えるかもしれないが、地元に根を張り続けるこうした古い商店の存在こそが、街の記憶が完全に風化してしまうのを食い止める強固なアンカー(錨)の役割を果たしているのだ。
スカイツリーを仰ぎながら、消えゆく昭和の肉声を聞け
現在の鳩の街を歩くと、その空間のねじれに誰もが戦慄を覚えるはずだ。
路地の角を曲がり、ふと頭上を見上げれば、住宅の屋根の隙間から地上634メートルのスカイツリーが巨大な刃のように空を突き刺している。その圧倒的な近代性の足元で、足元に視線を戻せば、ピンクや緑のモザイクタイルが貼られたカフェー建築の遺構が、静かに朽ち果てながら佇んでいるのだ。
近年は古い長屋を改装したカフェや古書店が点在し、若者たちがレトロな下町として散策を楽しむ姿も見られるようになった。だが、いくら小奇麗にリノベーションされようとも、この街の地面が吸い込んできた昭和の夜の重み、男と女が交わした欲望の残滓を完全に消し去ることなどできはしない。
歴史を忘れ、無菌室のような清潔な街ばかりをありがたがっている軟弱な連中は、黄昏時に鳩の街の路地へと一人で迷い込んでみろ。細い路地の奥から吹き抜ける湿った川風と、タイルの壁に反射する街灯の鈍い光を浴びた瞬間、お前は東京という都市が隠し持っている「本物の傷跡と色気」に、胸を鷲掴みにされるはずだ。

