偽札づくりの本拠地であるヨーロッパの極小国・カリオストロ公国。急勾配の瓦屋根を跳躍し、濁流逆巻く水路をよじ登り、捕らわれの少女を救うためにボロボロのフィアット500を爆走させる緑のジャケットの男。1979年に劇場公開された宮崎駿の映画初監督作『ルパン三世 カリオストロの城』は、半世紀近く経った今もなお、アニメーション映画の頂点として語り継がれる金字塔だ。
だが、当時の興行成績は決して華々しいものではなかった。原作モンキー・パンチが描いたピカレスクの毒気や、テレビ第1シリーズ前半の大人の退廃的なエロス、原作ファンが求めた冷酷な犯罪者像を期待した者からすれば、少女ひとりのために命を張り、泥臭く奔走するルパンは「牙を抜かれたお人好し」「毒のない宮崎アニメのヒーロー」と映ったからだ。
しかし、宮崎駿がこのフィルムに焼き付けたのは、安っぽいヒロイズムなどではない。全盛期の勢いを過ぎ、己の肉体の衰えと過去の過ちを痛いほど自覚した男が最後に選んだ、「泥棒の引き際」という名の極上のダンディズムだった。
「何も盗まない」というプロの美学と銭形の決定打
泥棒を主役に据えたエンターテインメントでありながら、ルパンはカリオストロ公国から物質的な財宝を何ひとつ持ち帰らない。
国を牛耳るカリオストロ伯爵の偽札製造プラントを完全に粉砕し、城の地下深くに沈んでいたローマ時代の巨大な遺跡を水底から浮上させ、国家の暗部に埋もれていた歴史の闇を白日の下に晒した。だが、事件が解決したあとのルパンの手元に残ったのは、山積みのゴート札でもなく、クラリスの指輪や王冠でもない。埃にまみれた空っぽのポケットだけだ。
金銭や権力への執着をあっさりと脱ぎ捨て、少女の未来だけを救い出して手ぶらで去っていく。このプロボノ(無償の奉仕)のような引き際の美学を、完璧な言葉で言い当てたのが、物語のラストを締めくくる銭形警部の台詞だった。
「奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」
文字面だけを追えば、気恥ずかしくて赤面するようなキザ極まりない台詞だ。しかし、この言葉が映画史に残る名フレーズとして世界中の映画ファンの胸に刻まれたのは、銭形という男が「ルパンを誰よりも理解し、その魂の格を熟知している現場のライバル」だからに他ならない。欲にまみれた紙切れを嘲笑い、少女の未来だけを盗み去った泥棒への、男としての最大級のリスペクトと敗北宣言だったのだ。
緊張を削ぎ落とすギャグと、欧州の古城を爆走する「埼玉県警」
息詰まるサスペンスとアクションの連続の中で、緊張の糸を絶妙なタイミングで弛緩させる宮崎駿の職人技も見逃せない。
次元大介と皿の上でミートボールスパゲッティをフォークで奪い合い、クラリスを救出するために北の塔の屋根を猛ダッシュするも、加速がつきすぎて足をバタつかせながら無様に転がり落ちるルパン。超人的なスーパーヒーローではなく、重力と摩擦力、そして筋肉痛に縛られた「生身の人間」として描くことで、アクションのリアリティとキャラクターの体温が画面から立ち上がってくる。
そして、このユーモアの最高到達点が、ヨーロッパの絵画のように静謐なカリオストロの敷地に、けたたましいサイレンを鳴らしながら突入してくる白黒のパトカー――車体側面に堂々と記された「埼玉県警」の文字だ。
インターポールの権限を笠に着て、日本の地方警察のパトカーと装備をそのまま空輸して乗り込んでくる銭形隊の泥臭さ。重厚なヨーロッパの石造りの街並みと、昭和の日本の地方公務員という異次元のミスマッチが、圧倒的な絵面の面白さとグルーヴを生み出している。この緊張と緩和の配分が狂気的なまでに計算されているからこそ、観客は何度見返しても飽きることなくスクリーンに引きずり込まれる。
「おじさま」の自覚:若さを消費しない男のダンディズム
『カリオストロの城』が時代を超えて大人の胸を締め付ける最大の理由は、ルパンがクラリスに対して徹底して「分別ある大人の男」であり続けた点にある。
すべてが終わり、クラリスから「私も連れてって」「泥棒になりたい」と涙ながらに縋り付かれた瞬間、男なら誰もが理性を揺さぶられるはずだ。だが、ルパンは彼女を抱きしめようとした両腕を一瞬躊躇させ、優しくその肩を押し戻す。そして、自らを「日陰者である泥棒」の領分に留め置き、少女の無垢な未来を自分の暗闇で汚さないために、笑顔で背中を向ける。
「馬鹿言っちゃいけない。お前さんの世界はここから始まるんだ」
かつて若気の至りでカリオストロの城に潜り込み、全身傷だらけで倒れていたところを幼いクラリスに水を恵んでもらった過去を持つルパン。彼は、自分がすでに青春を通り過ぎ、酸いも甘いも噛み分けた「おじさん」であることを冷徹に自覚している。自分の孤独や欲望を埋めるために若者の未来を巻き込まず、そっと背中を押して夜の闇へ消えていく男の背中。
若さを無自覚に消費し、老いることを醜く恐れて見苦しい執着を見せる大人が溢れる現代において、己の賞味期限を知り、美しい幕引きを選べるルパンの姿は、大人としての矜持そのものだ。
栗田貫一が元気なうちに、最新の映像技術でリメイクを観たい理由
1995年に急逝した初代・山田康雄の魂を引き継ぎ、30年近くにわたってルパン三世の声を背負い続けてきた栗田貫一。モノマネの代役から始まった彼のルパンは、今や完全に血肉化し、晩年の円熟味と、背中に哀愁を漂わせる本物のルパンとなった。
音響設計、手描きと3Dのハイブリッド作画、HDRによる緻密な光の表現など、現代のアニメーション制作の解像度は凄まじい次元に到達している。だからこそ、クリカンが声優としてトップコンディションを保ち、その声に円熟した男の渋みが最も乗っている今のうちに、最新の劇場クオリティで本気の『カリオストロの城』の再構築を観てみたいという渇望が消えない。
名作であるがゆえに触れてはならない聖域として封印するのではなく、現代の妥協なき映像美とダイナミックな音響、そして熟練の栗田貫一が演じる「少し老いたルパン」で、あの時計塔の歯車の中での死闘と、屋根の上のジャンプをもう一度劇場のスクリーンで体感したいのだ。
余計なものを握りしめず、ただポケットに手を突っ込んで去っていく男のダンディズム。情報と物欲に窒息しそうな令和の時代だからこそ、この映画が提示した「泥棒の引き際」という哲学が、乾いた喉に冷水を流し込むように深く刺さる。

