現代のサブカルチャーにおいて「異世界転生・転移」という言葉は、安易なチート能力やストレスフリーな願望充足の代名詞として消費されがちである。しかし、そうしたブームが本格化する遥か以前、1991年から小野不由美が紡ぎ出した『十二国記』シリーズは、異世界に放り込まれることの残酷さと、国を治めることの果てしない重圧を容赦なく描き切った、孤高のファンタジー巨編だった。
神仙や妖獣が息づき、古代中国の神話集『山海経』や『三国志』の乱世を思わせるアジアン・ゴシックな異世界。本作は、甘美な現実逃避を徹底的に拒絶し、「人間が自らの意志で立ち上がり、社会の責任を背負うとはどういうことか」を読者に問いかける、冷徹な政治思想・統治論の書である。
『三国志』の重厚さを纏った、最も過酷な「異世界転移」
『十二国記』の第一作『月の影 影の海』の舞台装置は、一見すると典型的な学園ジュブナイルの異世界転移ものに見える。
平凡な女子高生・中嶋陽子の前に、突然現れた謎の金髪の青年・ケイキ(景麒)。彼は彼女の前に跪き、「御前を離れず、詔命に違わず」と誓いを立て、問答無用で荒れ狂う虚海を越えて異世界へと連れ去っていく。しかし、足を踏み入れた先は、歓迎されるパラダイスなどではなかった。
身に覚えのない怪物(妖魔)に襲われ、言葉は通じず、着ている制服はボロボロになり、出会う人々には騙され、裏切られ、奴隷のように売られかける。そこにあるのは、異邦人を「海客」として差別・排除する、前近代的な国家の剥き出しの排外主義だった。小野不由美の筆致は冷酷なまでにリアリズムを貫く。チート能力どころか、空腹と孤独、他者への猜疑心に押しつぶされ、陽子は人間不信の極限まで追い詰められる。
だが、この過酷な試練こそが、親や教師の顔色をうかがい、「良い子」を演じることでしか自己を保てなかった一人の少女の偽善を削ぎ落としていく。泥水をすすり、生き延びるために剣を握り、自分の頭で考え、決断する。陽子が名実ともに一国の「王」へと覚醒していくプロセスは、フィクションにおける「少女の自立」の描写として、今なお他の追随を許さない強度を誇っている。
麒麟という残酷なシステム:主が悪に染まれば共に滅びる「失道」
『十二国記』の世界設定において、最も特異かつ思想的な白眉と言えるのが「麒麟」という霊獣の存在である。
天意を受け、国の象徴となるべき「王」を選定するのは、慈悲の心しか持たず、血の匂いを忌み嫌う霊獣・麒麟である。民の平穏を願う資質を持つ者だけが王として選ばれ、不老不死となって国を治める。一見すると、最良の君主を天が選ぶ理想的な天人合一のシステムに見える。しかし、小野不由美が設計したこの天理のシステムは、極めて残酷なブレーキを備えている。それが「失道」である。
王がひとたび道を誤り、悪政を敷き、民を苦しめれば、麒麟は原因不明の病に侵されて衰弱していく。そして麒麟が死ねば、王もまた生命を維持できずに死に絶え、国は荒廃し、妖魔が跳梁跋扈する暗黒時代へと突入する。主が悪に染まれば、自らを選んだ無垢な獣が苦しみ悶えて死んでいく。この凄まじいフィードバックループは、権力者に「無限の独裁」を許さない。
王であることは特権ではなく、命を担保にした「絶対の職責」である。どれほど善良な人間であっても、行政の実務に失敗すれば国は滅びる。『図南の翼』や『風の万里 黎明の空』で描かれる官僚組織の腐敗、税制の歪み、治安維持の苦悩は、まるで近世の統治機構をそのまま持ち込んだかのような骨太な政治サスペンスであり、リーダーシップの重圧をこれでもかと読者に突きつける。
NHKが本気で挑んだ、大河ドラマとしての破格のアニメ化
この妥協のない大河ファンタジーを、2002年にアニメーションとして世に送り出したのが、他ならぬ「NHK」だったという事実は、当時のアニメファンを大いに驚かせた。
民放の深夜枠ではなく、NHK BS2(後に教育テレビでも放送)という公共放送のプラットフォームで制作されたアニメ『十二国記』(制作:ぴえろ)は、児童向けアニメの枠組みを完全に超越していた。徹底的な時代考証を思わせる美術設定、緻密な色彩設計、そして作曲家・梁邦彦が手掛けた、アジアの民族音楽とオーケストラを融合させた重厚無比な劇伴音楽。テレビ画面から流れるその空気感は、単なるアニメの劇伴ではなく、NHK大河ドラマやシルクロードのドキュメンタリーに匹敵する威厳を放っていた。
原作の持つ過酷な暴力性や、陽子の内面の暗い葛藤を一切オブラートに包むことなく、正面から映像化したその姿勢は、アニメーションが「大人の鑑賞に堪えうる深遠な歴史劇」になり得ることを、お茶の間の視聴者に証明してみせたのである。
『十二国記』が数あるファンタジーの中で突出しているのは、最終的に描かれるのが「国家の盛衰」を通じた「個人の尊厳の回復」だからである。
物語の屈指の名場面、慶国の女王として即位した陽子が、家臣や民に向けて最初に発した詔勅(しょうちょく)。それは「伏礼の廃止」であった。他人の前に額を地につけてひれ伏す礼を禁じ、すべての民に「自らの足で立ち、己の頭を上げよ」と命じる。人は誰もが他人の奴隷ではなく、己という国の主権者(王)である。理不尽な天災や暴政、運命の不条理に直面したとき、誰かのせいにして頭を垂れるのではなく、自分の足で大地を踏みしめて前を向くこと。
古代中国の皮をかぶった異世界の中で、小野不由美が冷徹に暴き出したのは、統治の難しさと、それ以上に尊い「自立する人間」の気高さだった。天意や運命という名の巨大な構造に抗い、責任を背負って泥の中を歩み続ける登場人物たちの姿は、先行きの見えない現代社会を生きる私たちにとって、今なお背筋を正させる絶対の規範として光を放ち続けている。

