三宮の洗練された街並みを抜け、地下鉄や私鉄を乗り継いで高速神戸から新開地駅へと降り立つと、視界の色彩と漂う空気の比重が明確に変わる。地下街「メトロこうべ」の薄暗い通路には、昭和の面影を濃厚に残す卓球場や古びたゲームセンター、昼間からカウンターを埋める立ち飲み屋が連なり、地上へ出れば、かつてこの地を象徴した巨大劇場「聚楽館」の名残を留める赤いアーチゲートが、色褪せた空の下で鈍く構えている。
一般に消費される「神戸」の記号は、あまりに白く、清潔で、ハイカラだ。北野の異人館、旧居留地の重厚な近代洋風建築、あるいは海上に浮かぶ人工島ポートアイランド。しかし、そうした表層のモダンデザインの足元には、すり鉢状の険しい山と海に挟まれた隘路の中で、近代という濁流と格闘し続けてきたもう一つの神戸が横たわっている。その最深部に位置するのが、かつて「ええとこ」と歓楽の頂点を極めた街、新開地である。
長崎に似た急峻な地形と天井川:暗渠の上に生まれた人工の盛り場
新開地の成り立ちを理解するには、まず神戸特有の極端な地形に目を向けなければならない。背後に六甲山系の険しい断崖が迫り、眼前に瀬戸内海が広がるこの街は、九州の長崎と同じく、平地と山が一体となった逃げ場のないすり鉢状の斜面都市である。山から海までの距離が極めて短いため、降雨があれば濁流が一気に海へと雪崩れ込む宿命を背負っていた。
その象徴が一級河川・湊川であった。六甲の山々から押し流されてくる土砂の堆積によって川底が周囲の市街地よりも高くなった「天井川」であり、ひとたび豪雨に見舞われれば堤防が決壊し、神戸の街を壊滅的な水害で呑み込んできた。近代都市として港湾機能を拡張しつつあった神戸にとって、市街地を東西に分断し、幾度となく氾濫を繰り返す湊川の存在は、都市の発展を根底から阻む死活問題であった。
明治政府と地元財界はこの暴れ川を制御すべく、1901年に山麓の会下山に湊川隧道を穿ち、川の流れを西側の苅藻川へと大胆に付け替えるという、近代土木史上類を見ない大工事を断行した。これによって干上がった旧河川敷を埋め立て、平坦な土地として整備されたのが「新開地」である。つまりこの盛り場は、長崎のような急峻な山海の圧迫から近代工学によって無理やり奪い取った、暗渠の上に広がる人工の空間に他ならない。川が街を分断していた場所が、一転して広大な市街地へと姿を変え、そこに近代都市・神戸の拡大が孕む大衆のエネルギーが一気に流れ込んだのである。
東洋一の劇場街「ええとこ」の爛熟
大正から昭和初期にかけて、新開地は破竹の勢いで巨大化し、「東洋一の劇場街」と称される黄金期を迎える。湊川の旧堤防を切り崩した広大な敷地には、聚楽館をはじめ、松竹座、相生座、朝日館といった大劇場、芝居小屋、映画館、寄席が所狭しと林立した。
「新開地、ええとこ、映画と芝居、うまいもん食うて、一杯飲んで」と俗謡に歌われた通り、ここは港湾労働者、三菱や川崎といった巨大造船所の工員、商人、そして国内外を行き交う船乗りたちが昼夜を分かたず欲望を吐き出す坩堝となった。東京の浅草、大阪の千日前と並び称され、チャールズ・チャップリンが1932年の来日時にわざわざ立ち寄ったという逸話は、この街が持っていた国際港湾都市ゆえの規格外のスケールを雄弁に物語っている。
格式ばった社交場ではなく、汗と油の匂いが染み付いた労働者たちが、肩を寄せ合って笑い、泣き、酒を呷る。新開地は、近代化に邁進する国家の屋台骨を支えた無名の人々の、最大のガス抜き場であり生活の延長線上の聖域であった。大衆の歓声と映画の弁士の声、焼き鳥の煙と安酒の匂いが混じり合うその空間は、戦前の日本で最も熱量の高い歓楽街の一つとして君臨した。
谷崎潤一郎が描いた芦屋とのコントラスト
この新開地の持つ濃厚な土着性と猥雑さは、阪神間という地域が内包する強烈な階層格差を浮き彫りにする。谷崎潤一郎が『春琴抄』の着想を得て『細雪』の舞台背景として描き切った芦屋や岡本といった山の手の阪神間モダニズムは、ブルジョワジーの優雅な生活様式と純化された美意識の結晶であった。松林と清流、ハイカラな洋館が点在する芦屋の乾いた空気に対し、新開地は川を埋め立てた低地に沈殿する生の体温そのものであった。
山の手が西洋的なモダンや洗練された伝統美を輸入・構築していったのに対し、新開地は港湾労働者の過酷な肉体労働と、猥雑な大衆芸能の熱気を貪欲に吸い上げ続けた。芦屋のサロン文化が漂白された美を愛でていたまさにその同じ空の下で、新開地では義理と人情、血と汗の入り混じる浪曲や大衆演劇が喝采を浴びていた。新開地という泥臭い土台が存在したからこそ、対極としての芦屋や山の手の洗練が成り立っていたという都市の二面性は決して見逃すことができない。
ポートピアの光と新開地の影:ファミコンが捉えた都市の断層
戦後、高度経済成長とともに映画産業が斜陽化すると、神戸の都市機能と商業の中心は三宮へと急速に移動していった。その決定打となったのが、1981年の神戸ポートアイランド博覧会、いわゆるポートピア81である。六甲山の土を削って海を埋め立て、近未来的な海上都市「ポートアイランド」を造成した神戸市は、「山、海へ行く」というキャッチコピーのもと、徹底して清潔でスマートな先端都市像を世界にアピールした。
この人工島「ポートピア」の誕生によって、神戸のパブリックイメージは「山と海の間に広がる未来都市」として完全に上書きされた。だが、その華やかな近未来の表層の真裏で、かつての中心地であった新開地は、取り残された前時代の遺物として急速に周縁化されていく。
この光と影のコントラストを克明に記録したのが、1985年にファミコンへ移植され社会現象となった堀井雄二のアドベンチャーゲーム『ポートピア連続殺人事件』である。プレイヤーは刑事となって神戸の街を捜査するが、画面の中に立ち現れたのは、ポートアイランドの近代的なホテルや夜景のきらめきだけではなかった。事件の真相に迫る過程でプレイヤーが必ず足を踏み入れることになるのが、新開地のスナック街や薄暗い路地裏、そして暗渠の影であった。
華やかなウォーターフロントと、昭和の情念が澱のように残る新開地。ゲームの画面を通して提示されたその落差は、観光パンフレットが決して語らない神戸という都市の隠された二重構造を、当時の子供たちの記憶にまで刻み込むこととなった。
大震災の壊滅と、それでも消えぬ下町の骨格
そして1995年1月17日、阪神・淡路大震災がこの街を直撃する。激震地となった新開地周辺は、老朽化した木造長屋や昭和の雑居ビルがことごとく倒壊し、猛火に包まれた。地下街の柱はへし折れ、かつての繁栄の象徴であった多くの劇場建築や大衆酒場が物理的に命を断たれた。街のシンボルでもあった聚楽館の後継ビルも甚大な被害を受け、新開地が積み重ねてきた近代の痕跡は一瞬にして瓦礫の山へと変貌した。
三宮やウォーターフロントが巨額の資本投下によって急速に近代的な復興を遂げていく中で、新開地の傷跡の治癒には長い歳月が必要とされた。行政主導の再開発は必ずしもかつての活気を取り戻す特効薬にはならず、街は更地と空き店舗が目立つ長い沈黙の時期を過ごすことになる。
だが、新開地は死ななかった。震災後、瓦礫の中から立ち上がったのは、再び巨大な商業資本ではなく、泥臭い芸能と大衆文化への執念であった。映画の街としての矜持を守り続けた名画座「パルシネマしんかいち」や、大衆演劇の拠点として全国からファンを集める「新開地劇場」、そして2018年に上方落語の定席として誕生した「神戸新開地・喜楽館」の開館は、この街が大衆娯楽の聖地であることを自ら再宣言した瞬間でもあった。
昼間から暖簾を掲げる立ち飲み屋には、今も常連客の嗄れ声と笑い声が響き、地下通路には卓球のラリー音がこだまする。山と海が狭まる急峻な土地に、川を埋め立てて強引に築き上げられた人工の盛り場。それは震災と時代の激変によってどれほど傷を負おうとも、決して無機質な観光都市には染まらない。新開地の薄暗い路地と地下通路に漂う酒の匂いは、清潔すぎる神戸が隠し持つ、最もタフで切実な都市の鼓動を今も鳴らし続けている。

