喉を捨てて生き延びるくらいなら歌って死ぬ――忌野清志郎に見る「声帯に殉じた」ロックンロールの極致

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フォークの殻を破り捨てた異形のロックスター:忌野清志郎の原点

忌野清志郎、本名・栗原清志。1951年に東京の中野で生まれ、国分寺で育ったこの男は、日本の音楽史における「ロック」という概念そのものを根底からひっくり返した唯一無二の表現者だった。

1968年に結成されたRCサクセションは、1970年にシングル「宝くじは買わない」でデビュー。初期はアコースティックギターを抱えたフォーク色の強いトリオとして活動していたが、当時のフォークブームの生温い抒情詩とは一線を画す、むき出しの情念とブルースの匂いを漂わせていた。しかし、彼らが真に日本の音楽シーンの怪童として覚醒したのは、1970年代後半、エレキギターを抱え、リズム&ブルースとファンク、そしてパンクの熱量を融合させたエレクトリックバンドへと変貌を遂げてからである。

派手なメイク、逆立てた髪、極彩色のド派手な衣装。ステージ上で腰を振り、煽り立てる清志郎の姿は、当時の日本の常識からすれば完全に異形だった。だが、その滑稽なまでに過激なビジュアルの内側に宿っていたのは、本場アメリカのソウルミュージックへの深い愛情と、既成概念を粉々に粉砕しようとする純度100パーセントのロックスピリットだった。

テレビCMによる全国への浸透:ピストルズへの共鳴と日本語ロックの革命

RCサクセションが後世の日本のミュージシャンに残した最大の功績は、「日本語でロックを歌う」という長年の命題に、完璧な回答を叩きつけたことにある。

当時、ロックといえば「英語で歌わなければグルーヴが出ない」「日本語はロックのビートに乗らない」という不毛な議論が続いていた。清志郎はその定説を、ソウルフルなシャウトと日本語特有のイントネーションを活かしたリズム感で跡形もなく吹き飛ばした。「雨あがりの夜空に」や「トランジスタ・ラジオ」で響く言葉は、翻訳された借り物の英語ではなく、日本の若者が日々生きている街の匂いと情熱そのものだった。

その破天荒なステージングと体制への挑発は、後から振り返れば、1970年代後半にロンドンを揺るがしたセックス・ピストルズをはじめとするオリジナル・パンクスへの深い尊敬の念が血肉化されたものだったと言える。反骨、諧謔、そして社会の欺瞞に対する強烈な挑発。

このアングラな熱量は、1980年代に入るとテレビCMを通じて一気に日本全国のお茶の間へと浸透していく。坂本龍一と組んで資生堂の春のキャンペーンソングとなった「い・け・な・いルージュマジック」では、男同士で過激なメイクを施し、唇を重ね合わせるセンセーショナルな映像がブラウン管をジャックした。アングラの反逆者が、お茶の間のテレビカルチャーを堂々と手玉に取って一躍国民的な知名度を獲得する。この規格外の突破力こそが、日本のロックをメジャーの表舞台へと引きずり出す決定打となった。

日比谷野音の「スローバラード」:BOØWYを生み、ロックを一般化させた夜

この清志郎の放つ凄まじい熱量は、後の日本のロックシーンの地図を完全に書き換える怪物を決定的な形で目覚めさせることになる。若き日の氷室京介のエピソードである。

当時、音楽事務所の意向によって意に沿わないアイドル的なバンド活動を強いられ、商業主義の操り人形にされることに心底嫌気がさしていた氷室は、音楽の世界から完全に足を洗う決意を固めていた。同棲していた彼女とも別れ、故郷である群馬県高崎市へと完全に引き揚げる準備を進めていた彼が、東京を去る直前に最後に足を運んだのが、日比谷野外音楽堂で行われていたRCサクセションのライブだった。

夕暮れ時の野音で、清志郎が歌い上げた「スローバラード」。静寂を切り裂き、魂を絞り出すように響き渡るその本物の歌声を浴びた瞬間、氷室の身体に電流のような衝撃が走った。「俺は何をやっていたんだ」「こんな本物のロックを見せつけられて、田舎へ帰れるわけがない」。事務所の敷いたレールに絶望していた氷室の胸に、猛烈な表現欲と闘争心が再び激しく点火した。彼はその場で帰郷を撤回する。

そして野音を出たその足で公衆電話へ駆け込み、地元・高崎の仲間であった布袋寅泰に電話をかけた。「六本木のアマンドに来てくれ」。呼び出された布袋とともに新たなバンド結成へと動き出し、そこから日本のロック史を塗り替える「BOØWY」の伝説が幕を開けた。

のちにBOØWYは、不良のサブカルチャーに過ぎなかったロックを、日本全国のスタジアムを満員にし、誰もが口ずさむ大衆文化へと一気に押し広げ、完全に一般化させることになる。しかし、その巨大な歴史のうねりも、事務所主導の音楽に絶望していた氷室が、あの日、日比谷野音で清志郎の歌声に撃ち抜かれていなければ、この世に生まれることは決してなかったのだ。

覆面バンド「THE TIMERS」:生放送で規制を粉砕したロックの意地

清志郎のロックスターとしての意地が最も過激な形で炸裂したのが、1980年代末に結成された覆面バンド「THE TIMERS(タイマーズ)」での活動である。

土木作業員のヘルメットに現場用ニッカポッカ、顔には手ぬぐいの覆面を巻き、「ゼリー」という偽名を名乗った清志郎。アコースティック楽器を基調としながらも、放たれるメッセージは極めて危険でアナーキーだった。原発問題や社会の矛盾をストレートに告発する楽曲の数々は、メジャーレーベルや大手メディアを震え上がらせた。

その狂気と意地が伝説となったのが、1989年、フジテレビ系列の生放送音楽番組『ヒットスタジオR&N』での出来事である。自らの楽曲の放送を規制したFM東京に対する怒りを込めて、生放送の本番中に突如として予定されていた演奏曲を破棄。「FM東京、腐ったラジオ」と放送禁止用語を連打する過激な曲を全国の電波に乗せて絶叫したのだ。

スタジオが凍りつき、スタッフが青ざめる中で、ギターをかき鳴らし唾を吐き捨てるように歌い切ったその姿。スポンサーやコンプライアンスに怯えるテレビ業界のルールを公波の上で真っ向から踏み躙ったこの事件は、自らの表現を規制されることに対する、ロックンローラーとしての絶対に譲れない宣戦布告だった。

命よりも喉を選んだ男:つんく♂との対比に見る壮絶な覚悟

しかし、そんな無敵のロッカーにも過酷な運命が牙を剥く。2006年、清志郎は進行性の喉頭がんを宣告される。

医師から提示された標準的な治療法は、声帯の摘出手術だった。現代医学の観点から言えば、命を確実に長らえさせるためには、声帯を切除して生存率を高めることが最優先の選択肢となる。

だが、清志郎はその選択を断固として拒絶した。声を失って生き延びるくらいなら、死のリスクを背負ってでも歌い続ける道を選ぶ。抗がん剤と放射線治療による過酷な闘病を選び、奇跡的に武道館のステージへと復帰した。一人のボーカリストとして、「喉を捨てることは、自分の魂を捨てることと同じである」という、常人には理解し得ない凄まじい執念を貫き通したのだ。

この清志郎の決断は、同じく喉頭がんを患いながら、生き延びて家族を守り、後進を育てる総合プロデューサーとしての責任を全うするために声帯摘出を選んだ「つんく♂」の現実的で尊い覚悟とは、完全に対極をなすものだった。

どちらが正しいという話ではない。ただ、清志郎という男は、社会的な役割や生存そのものよりも、「マイクの前で自分の声を絞り出すこと」に人生のすべてを賭けた、純粋で狂気じみたロッカーであり続けたのだ。

布袋寅泰の慟哭:ギターソロで奏でた「スローバラード」の追悼

2009年5月2日、がんの転移により、忌野清志郎は58歳でこの世を去った。

その日の夜、訃報をツアー先で受け取ったギタリスト・布袋寅泰は、激しい慟哭を抱えたままステージに上がった。自身の代表曲「FLY INTO YOUR DREAM」の演奏中、張り詰めた空気の中で響き渡った長大なギターソロ。布袋はそのソロの旋律の中で、まるで清志郎の魂を天へと見送るかのように、あの「スローバラード」のメロディをギター一本で狂おしく、そして切なく奏できったのだ。

かつて氷室とともにBOØWYを立ち上げるきっかけとなり、日本のロックの景色を一変させる原点となったあの名曲を、訃報の夜に渾身の音色で歌わせる。言葉を超えた布袋のギターの咆哮は、清志郎という不世出のロックスターへ捧げられた、これ以上なく純粋で美しい追悼の祈りだった。

世間におもねることなく、タブーを恐れず、権力を笑い飛ばし、最期は命よりも自分の喉と歌声を選んで散っていった男。忌野清志郎が遺した足跡は、綺麗にパッケージ化された現代の商業音楽が絶対に手に入れることのできない、「本物のロックンロールの毒と輝き」そのものだった。

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