栃木・塩原温泉「古町・門前」:箒川の渓谷沿いに連なる木造旅館と、文豪たちが逗留した湯治場の暗がり

Midnight Report
スポンサーリンク

旅や遠征先というと、四国四県の城下町や九州のメガ歓楽街のような、遠く離れた非日常の地ばかりに意識が向かいがちだ。だが、関東近郊に身を置く俺様たちにとって、もっと身近でありながら、底知れぬ深みと歴史を湛えた逃避行の聖地が存在する。栃木県の北部、那須連峰の険しい山裾に抱かれた「塩原温泉郷」だ。

首都圏からアクセスする場合、東北新幹線に飛び乗れば「那須塩原駅」までは東京駅からわずか1時間強。そこからレンタカーのアクセルを踏み込むか、バスに揺られて箒川(ほうきがわ)沿いの上り坂を進んでも、トータルで2時間足らずの距離感である。

わざわざ有給休暇を何日も積み上げて仙台や盛岡まで遠出をしなくても、あるいは大混雑する越後湯沢や長野の有名観光地へ揉まれに行かなくてもいい。大人が日常の雑音や仕事のプレッシャーをスパッと断ち切り、週末の48時間で心身を根こそぎリセットするなら、この「東京から2時間圏内」という絶妙な距離感こそが最も合理的で美しいのだ。

近すぎず、遠すぎず。新幹線の車窓から灰色のビル群が消え去り、那須野が原の広大な扇状地と険しい山並みがぐんぐんと視界に迫ってくるあの車窓のグラデーションこそが、旅情を最高潮に引き上げてくれる。仙台まで行かずとも、北関東の奥座敷には大人が本気で遊べる極上のフィールドが完璧に用意されているのである。

新潟の湿った重雪とは違う――内陸のパウダースノーとスキーヤーの特権

冬の塩原を語る上で、絶対に外せないのがスキーやスノーボードといったウィンタースポーツの絶好のフィールドであるという事実だ。

関東近郊のスキー場というと、多くの人間は関越道をひた走って新潟の湯沢や南魚沼方面を目指す。だが、日本海側の湿った雪雲がダイレクトに吹き付ける新潟の雪は、どうしても水分を多く含んだ「べしゃべしゃの重い雪」になりがちだ。ターンを切るたびに足を取られ、転べばウェアはじっとりと重くなり、午後のゲレンデは荒れた湿雪で脚力を容赦なく削り取っていく。

しかし、ここ那須塩原の山岳地帯――ハンターマウンテン塩原などに降り積もる雪はまるで別物だ。太平洋側の乾いた冬の内陸気候に支えられているため、雪質が驚くほど軽やかでサラサラしているのである。

水分を極限まで含まない、板が軽快に走る極上のドライパウダースノー。朝イチの澄み渡る寒気の中、リフトに乗って山頂へ上がり、キュッキュッと乾いた音を立てる雪を踏みしめながら、ピステンが入った美しい圧雪バーンを一気に切り裂いていく爽快感はまさに格別だ。

そして何より素晴らしいのは、ゲレンデで一日中滑り倒して筋肉を限界まで酷使した体を、下山後わずか十数分から二十分足らずで「千年以上続く本物の温泉」へ直接放り込めるという、計算し尽くされた贅沢な動線にある。

千二百年の湯治場――箒川の渓谷美と、文豪たちが愛した木造建築の陰影

山を降り、箒川の激流が気の遠くなるような歳月をかけて削り取った深い渓谷沿いへ車を進めると、塩原温泉郷の真の核心部がその姿を現す。

塩原温泉の歴史は古い。平安時代の初期、大同元年(806年)に発見されたと伝えられ、実に千二百年以上の歴史を誇る名湯中の名湯だ。箒川の清冽な渓流沿いには「塩原十一湯」と呼ばれる多種多様な泉源が点在し、乳白色の濃厚な硫黄泉から、肌に吸い付くような無色透明の弱アルカリ性炭酸水素塩泉まで、湯口ごとに全く異なる表情を見せてくれる。同じ温泉街でありながら、宿ごとに泉質も効能も湯の色すら違うのだから、温泉好きにはたまらない。

この豊かな自然と湯の持つ圧倒的な治癒力に魅了されたのが、明治から昭和にかけての名だたる文豪たちだった。夏目漱石、谷崎潤一郎、尾崎紅葉、泉鏡花、野口雨情――。彼らは東京の喧騒と締め切りから逃れ、箒川の轟くせせらぎが響くこの温泉街の木造旅館に何週間も逗留し、湯に浸かりながら名作の構想をじっくりと練り上げた。

尾崎紅葉が名作『金色夜叉』の執筆に着手したのも、まさにこの塩原の静けさの中である。川沿いの断崖にへばりつくように建つ木造旅館の重厚な梁、黒光りする廊下、すりガラスの窓から見下ろすエメラルドグリーンの渓谷と白い湯煙。近代的な巨大スパリゾートには逆立ちしても真似のできない、文豪たちの深い思考と孤独が沈殿したような静謐な陰影が、今なおこの谷間には色濃く漂っているのだ。

湯煙の奥に灯るネオン――「古町・門前」の渋いスナック街

夕暮れ時、箒川の渓谷に冷たい夕霧が立ち込め、宿の源泉掛け流し露天風呂から上がって浴衣に丹前を羽織った俺様が向かうのは、塩原温泉の歴史的な中心地である「古町(ふるまち)」、そして「門前(もんぜん)」エリアだ。

多くの一般的な観光客は、宿の豪華な夕食を終えるとそのまま部屋に引きこもり、テレビを見ながら早々に布団へ潜り込んでしまう。だが、塩原という街の本当の味わい、大人の旅情の真骨頂は、夜の帳が完全に下りた後のこの古町・門前の通りにこそ隠されている。

川沿いのメインストリートから一本路地へ入ると、昭和の湯治場の香りを色濃く残した小さな歓楽街が、慎ましやかに、しかし確かな体温を持ってネオンを灯し始める。昼間の観光客向け射的場や温泉饅頭屋のシャッターが下りた後、闇の中にポツリポツリと浮かび上がる「スナック」「居酒屋」「小料理」の看板。決して松山や熊本のようなメガ歓楽街ではない。だが、木造長屋の軒先に赤提灯が灯り、すりガラスの引き戸の向こうからカラオケの音漏れと地元訛りの笑い声が聞こえてくるあの光景には、大都会のネオン街にはない強烈な旅情と哀愁が宿っている。

この歓楽街を支えているのは、一見の観光客だけではない。近隣のスキー場帰りのインストラクターやボーダー、温泉街の老舗旅館を支える裏方たち、そしてこの深い谷間で代々生まれ育ってきた頑固で温かい住民たちだ。雪がちらつく氷点下の夜、吐く息を真っ白に染めながら小さなスナックの引き戸をガラガラと開けると、石油ストーブのどこか懐かしい温かい匂いと、カウンター越しに迎えてくれるママの柔らかな笑顔がそこにある。

湯治場の暗がりに沈む、大人の夜の贅沢

カウンターの端に腰を下ろし、冷えた体に地元・栃木の銘酒「天鷹」や「惣誉」の熱燗を流し込む。お通しに出てくる素朴な山菜の小鉢や、地元で採れた滋味深い茸の煮物を突きながら、熱い酒が五臓六腑へとじわじわ落ちていくのを感じる。

隣に座った宿の番頭らしき地元のおっさんと、ぽつりぽつりと交わす他愛のない会話。「今年の雪は当たりだ」「昔はもっと文豪の先生たちが長逗留して賑やかだった」。そんなローカルな記憶の断片を肴に飲む酒は、どんな高級バーのカクテルよりも心に沁み渡る。

昼間は乾いた雪のゲレンデを風を切って滑り倒し、夕暮れには文豪たちと同じ箒川の湯煙に身を委ね、そして夜が更けたら湯治場の片隅にあるスナックで熱燗を呷る。

遠く東北の仙台まで何時間もかけて行かなくても、ここ那須塩原には、大人が求める「極上の雪」「歴史ある名湯」「そして夜のささやかな灯火」がすべて完璧な密度で揃っている。

箒川の轟くような水音をBGMに、夜の静けさの中へ溶けていく古町・門前の暗がり。新幹線でわずか2時間。この近くて深い湯治場の懐に抱かれながら、俺様は熱燗の杯を傾け、冬の夜の贅沢を噛み締めていたのである。

タイトルとURLをコピーしました