四万川の清流が刻む瀬音と、夜の冷え切った山気が温泉街の狭い谷底を満たしていく。
群馬県吾妻郡中之条町に位置する「四万(しま)温泉」。「四万(よんまん)の病を癒やす霊泉」として平安時代からその名を轟かせ、国の国民保養温泉地第1号にも指定された由緒正しき湯治場だ。近年では、現存する日本最古の木造湯宿建築として名高い「積善館(せきぜんかん)」の本館が、スタジオジブリ映画『千と千尋の神隠し』のモデルの一つとして喧伝され、赤い慶雲橋の上は昼夜を問わずインスタ映えを狙う観光客で溢れ返っている。
だが、あの朱塗りの橋とライトアップされた幻想的な木造楼閣の表層から一歩外れれば、そこには観光地化されたファンタジーとは似ても似つかない、本来の湯治場が持つ「乾いた鄙び」と「圧倒的な暗がり」が静まり返っている。
山口地区から新湯(あらゆ)地区へと続く裏路地へ足を踏み入れると、東京から近いながらも外界の喧騒を拒み続ける、上州の奥座敷のリアルな夜が姿を現す。
アホな水泳部が温泉プールで泳いだ愚行と、四万の極上湯脈
四万温泉の歴史は、坂上田村麻呂の開湯伝説や延暦年間にまで遡るほど古く、硫酸塩泉・塩化物泉の柔らかな湯は、古来より胃腸病や切り傷、疲労回復に効く名湯として湯治客を集めてきた。
だが、個人的にこの四万の湯を思い出すとき、真っ先に脳裏をよぎるのは、高校時代の水泳部として繰り広げた救いようのない愚行の記憶だ。
遠征や合宿にかこつけてこの山奥へやってきたアホな水泳部だった俺たちは、宿にあった「25メートルの温泉プール」に目を輝かせ、あろうことか天然温泉の湯の中で本気のインターバルトレーニングよろしく泳ぎまくるという暴挙に出た。
温泉というのは本来、じっくりと腰を据えて湯船に浸かり、身体の芯まで成分を染み渡らせるものだ。そんな極上の湯脈の中で全力でクロールを掻き、バタフライを打ち、息を切らして湯を飲むような愚行を冒せばどうなるか。温泉の熱気と水圧、強烈な発汗作用で身体は一瞬でオーバーヒートを起こし、プールサイドで全員が這うようにして倒れ込んだ。
若気の至りとはいえ、四万の湯の浸透圧とパワーをこれほど無駄かつ身をもって痛感した経験はない。普通に浸かる分には、肌に吸い付くように優しく、芯から疲労を解きほぐしてくれる文句なしの名湯である。
新潟のベチャ雪を避けて群馬へ:都内から車で通ったスキーヤーの抜け道
四万温泉が首都圏の人間にとって絶妙な立ち位置にある理由は、その地理的条件にある。
電車の便はお世辞にも良いとは言えない。JR吾妻線の中之条駅からバスに揺られて山道を延々と登る必要があり、公共交通機関だけで訪れようとすればなかなかの骨が折れる。だが、関越自動車道の渋川伊香保ICから車を走らせれば、都内からでも思いのほか短時間でアプローチできる身近さを持っている。
そして冬場、スキーヤーにとって群馬の山岳地帯は特別な価値を持っていた。
関越トンネルを抜けた先の新潟・湯沢方面へ行けば、日本海側特有の水分をたっぷりと含んだ重たくベチャベチャとした雪に遭遇することが多い。車のワイパーを痛め、板の滑りを鈍らせるその湿雪を嫌う連中は、あえて三国峠を越えずに群馬側のゲレンデを選び取った。
内陸性の気候によって引き締まった、サラサラの雪質で斜面を滑り倒し、冷え切った身体のまま山を下りて四万の温泉宿へ滑り込む。
電車の便が悪いからこそ、気の置けない友人の車やレンタカーを走らせて、自分たちの足で山奥へ潜り込む。この「少し不便だが車なら一気に届く」という絶妙な距離感こそが、四万温泉を長年にわたって大人の逃避先として機能させてきた理由だ。
積善館のライトアップの裏で:山口・新湯地区の裏路地に沈む湯治場の暗がり
夜が深まると、新湯地区のシンボルである積善館のライトアップも消灯し、観光客たちは部屋の布団へと引き上げていく。
そこからが、四万温泉の本当の夜の始まりだ。
川沿いのメインストリートを離れ、山口地区から新湯地区へと続く裏路地へ足を踏み入れる。そこには、派手な歓楽街やネオン看板など一切存在しない。戸倉上山田や下呂のようなスナック街やキャバレーの遺構すらなく、街灯がぽつりぽつりと石垣や木造家屋の板壁を頼りなく照らすだけの、深い「暗がり」が横たわっている。
四万川の激しい水音だけが谷間に反響し、夜風が吹き抜けるたびに古びた木造旅館の障子が微かに鳴る。
路地の隙間には、地元住民や自炊湯治客が通う共同浴場「上之湯」や「御夢想の湯」が、ひっそりと灯りを落としている。かつて湯治客たちが米や味噌を抱えて逗留し、何週間もかけて身体を治癒していった時代の、質素で飾らない生活の体温が、アスファルトの隙間から立ち上る硫黄の湯気とともに路地裏へ染み出している。
インスタグラムに切り取られる小綺麗なフォトジェニックの裏側に、数百年変わらない「本物の鄙び」が、音もなく息を潜めているのだ。
友人の車で山奥へ潜り、夜の静寂に身を浸す男の夜行
裏路地を歩き終え、川にかかる名もなき橋の欄干に手を置いて夜空を見上げる。
山あいの冷気が肌を刺し、見上げれば満天の星が黒い稜線の隙間にびっしりと瞬いている。
高校時代の水泳部で温泉を泳ぎ狂った馬鹿げた熱狂、新潟の悪雪を避けて群馬の良質な雪を求めた車中のドライブ、そして積善館の華やかさの影にひっそりと残された湯治場本来の鄙びた暗がり。
電車の便が悪いこの山奥だからこそ、レンタカーのハンドルを握り、気の合う連中や一人でふらりと辿り着く価値がある。
コンビニの人工的な光も、夜通し騒ぐ観光客の声もない。四万川の瀬音と漆黒の山並みに包まれながら、缶ビールを片手に夜の冷気を胸いっぱいに吸い込むこと。これこそが、大人の男が日常の結界を越えて辿り着く「Midnight Report」の極上の終着点なのだ。

