香川・高松「古馬場町」:四国の玄関口としての連絡船マネーが育てた、アーケード街の奥の巨大スナック街

Midnight Report
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学生時代、初めて四国の地を踏んだ瞬間のあの強烈な光景を、私は今でも昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。渡ったのは、青く穏やかに広がる瀬戸内海を、巨大な銀色の鉄骨構造物で豪快に跨ぐ瀬戸大橋だ。

電車に揺られて海を越えるにせよ、車を走らせて高速道路の継ぎ目を踏み越えていくにせよ、あの巨大な橋梁の上のスパンを通過する瞬間、視界いっぱいに飛び込んでくるパノラマには誰しも息を呑むに違いない。どこまでも澄み渡る紺碧の海、そこにぽつぽつと浮かぶ深い緑の島々、白い航跡を一本の線のように引きながら進む小さな漁船、そして遥か彼方に青く霞む本州と四国の山影。もしあれが信号のある一般道であり、路肩にハザードを点滅させて車を停めることが許される構造だったなら、通りかかる人間は全員ハンドルを切り、欄干に身を乗り出して潮風を浴びながら、何時間でもその圧倒的な多島美を眺め続けていたはずだ。それほどまでに瀬戸の海は美しく、そして人を惹きつけてやまない魔力を持っている。

だが、あの壮大な鉄の架橋が海を跨ぐ前、四国と本州を結ぶ唯一無二の大動脈は、海の上を往来する「宇高連絡船」だった。

岡山県の宇野港から、香川県の高松港へ。夜明け前の白く立ち込める霧の海を切り裂き、あるいは夕暮れの茜色に染まる波間を縫うようにして、人々と物資を満載した巨大な船が24時間体制で絶え間なく往来していた。四国全土の山奥や海沿いの町へ向かう旅人も、本州の大都市へ商談に向かうビジネスマンも、巨大な貨物を運ぶトラックも、すべてが一度はこの高松の港に降り立たなければならなかった時代。高松港から高松駅へと続く動線は、名実ともに「四国の絶対的な玄関口」であり、その狭い港町を起点にして、日本中の人流と莫大なマネーが渦を巻くように集まり、そして四国全域へと吐き出されていったのだ。

連絡船マネーが育て上げた、四国屈指の歓楽街「古馬場町」

夜の帳が下り、港に大型連絡船が接岸する。デッキから吐き出された大勢の男たち、連絡列車の乗り換えまで数時間の待ち時間を余儀なくされた人々、そして出張の仕事を無事に終えて肩の荷を下ろしたサラリーマンたちが、吸い寄せられるように向かった先。それが、高松の市街地、日本一の総延長を誇る長大なアーケード街のすぐ東側に、口を開けて待ち構えている巨大歓楽街「古馬場町(ふるばばちょう)」である。

中央商店街の明るく洗練されたショッピングアーケードから、わずか一本、東側の路地へと足を踏み入れた瞬間、周囲の空気と匂いはガラリと密度を変える。視界を覆い尽くすのは、幾重にも折り重なるようにひしめき合う雑居ビルの群れと、夜の闇を毒々しくも妖艶に照らし出す無数のネオン看板の海だ。スナック、ラウンジ、小料理屋、スタンドバー、居酒屋、そして昭和の残り香をこれでもかと色濃く残す怪しげな飲食店ビルの数々。四国の落ち着いた地方都市という長閑なステレオタイプを完全に粉砕する、異様な熱量とスケール感を持った巨大スナック街がそこには広がっている。

なぜ、人口数十万人規模の地方都市において、これほどまでに巨大で重厚な夜の街が成立し得たのか。その答えこそが、かつて連絡船が一便ごとに港へ吐き出し続けた莫大な「連絡船マネー」と「滞留する人間のエネルギー」に他ならない。

当時の高松は、現在のようにあっさりと通過できる場所ではなかった。海を渡るという物理的なワンクッションがあるがゆえに、旅人も商談客も、この街で必ず足を止め、宿を取り、一杯引っ掛け、夜の街へ財布の紐を緩めて金を落としていった。船の重い汽笛と、駅構内に響く発車ベルの合間に生まれた歓楽街の熱気。中東の産油国を潤したのがオイルマネーなら、高松の夜の経済を爆発的に膨張させたのは間違いなく「宇高連絡船マネー」だった。その莫大な富がビルを建て替えさせ、無数のスナックの扉を開かせ、古馬場町のネオンサインを四国屈指の規模へと押し上げたのである。

橋の開通がもたらした「通過する街」への変貌と光影

昭和63年(1988年)、瀬戸大橋が開通した。それは四国の近代史における悲願の夜明けであり、物流のボトルネックを一撃で破壊し、人々の移動速度を劇的に跳ね上げた土木工学の結晶だった。岡山から快速マリンライナーに乗り込めば、わずか1時間足らずで海を飛び越え、高松駅のホームへ滑り込むことができる。四国は名実ともに、鉄路と道路で本州と直結されたのだ。

しかし、技術とインフラの進歩は、常に残酷な二面性を街に突きつける。海を渡る時間が一瞬に短縮された結果、何が起きたか。人々は高松の街で足を止め、夜を明かす必要が完全になくなってしまったのだ。

かつてなら高松に投宿し、古馬場町のネオン街で同僚や取引先とグラスを傾けていた本州のビジネスマンたちは、今や高松での商談を夕方に終えれば、そのまま新幹線連絡の特急に飛び乗ってその日のうちに東京や大阪の自宅へと帰還できるようになった。あるいは高松で途中下車することすらなく、徳島、高知、松山へと高速道路や特急列車で直行してしまう。かつて四国へ向かう人間を強制的に滞留させ、街に富を落とさせ続けた「関所」としての機能は、橋の架橋とともに霧散した。

高松は、日本列島の高速交通網の末端に組み込まれた結果、「滞留する街」から「効率よく通り過ぎてしまう街」へと、その宿命的な立ち位置を変えざるを得なかったのだ。巨大な橋梁がもたらした圧倒的な利便性の裏側で、かつて歓楽街を潤沢に潤していた人流の巨大な淀みは、激しい潮流のように一気に別の場所へと押し流されていった。

昭和の熱狂と男たちの哀愁を閉じ込めたタイムカプセル

だが、夜が更けて古馬場町へ一歩足を踏み入れてみれば、この街は決して過去の遺産として息絶えたわけではないことを、訪れた者に強烈に知らしめてくる。むしろ、通過する街へと変わったからこそ、ここには昭和から平成初期にかけての熱狂の残滓が、奇跡的な密度で冷凍保存されているのだ。

雑居ビルの薄暗い奥まった通路を歩けば、真鍮の取手がついた重厚なスナックのドアがずらりと並ぶ。すりガラス越しに漏れ聞こえてくるのは、往年の歌謡曲を響かせるカラオケの重低音と、常連客の笑い声、そしてカウンター越しに酒を注ぐママの甲高い声だ。高度経済成長期からバブル前夜、波に揺られて連絡船から降り立ち、ネクタイを緩めてカウンターに肩を並べていた名もなき企業戦士たち。彼らが浴びるようにウイスキーを煽り、煙草の煙をくゆらせていたあの時代の濃密な体温と湿度が、壁の黄ばみや路地の陰影の隅々にまで、今なお深く染み付いている。

東京の整然としたオフィス街や、資本系の大手飲食チェーンが画一的に埋め尽くす現代の再開発ビルには、逆立ちしても作り出せない「人間の欲望と哀愁の堆積物」。それこそが古馬場町の路地裏に漂う空気の正体だ。時代がどれほどデジタル化され、移動の時間がどれほど分単位で削ぎ落とされようとも、酒を酌み交わし、誰かに話を聞いてもらい、夜の帳の中で孤独を薄めたいと願う人間の本能だけは、昭和の連絡船の時代から何一つ変わっていない。

効率の時代にこそ、あえて高松の夜に沈殿する贅沢

現代の旅や出張は、あまりにも「速さ」と「無駄の排除」に支配されすぎている。瀬戸大橋の洗練された車窓から眺める穏やかな瀬戸内海は、確かに未来へ向かって滑走するスピードの象徴であり、現代文明が勝ち取った勝利の光景かもしれない。

だが、だからこそ我々は、そのスピードの罠から意識的に身を引き剥がす必要があるのではないか。新幹線と特急を乗り継いで日帰りで通り過ぎるのをやめ、あえて高松のビジネスホテルに宿を取り、夜の街へと繰り出してみる。アーケードの眩い光を抜け、古馬場町の古びた雑居ビルの階段を上がり、小さなスナックの重い扉をそっと押し開けてみるのだ。

琥珀色の水割りグラスの中でカランと音を立てる氷。乾き物の小鉢と、壁に貼られた年季の入った短冊メニュー。見知らぬ街のカウンターの端に座り、地元の人々の讃岐訛りの会話に耳を傾ける時、我々はかつて夜の海を渡り、高松の港に降り立ってこの街に沈殿していった無数の先人たちと同じ、旅愁という名の濃密でほろ苦い時間を共有することになる。古馬場町とは、効率化という名の波に洗われながらも、人間がかつて持っていた「夜の余白」を今に守り続ける、四国の誇り高き巨大なタイムカプセルなのである。

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